昔、小学校には歩きながら読書する二宮金次郎像(二宮尊徳)が有ったが、一時期その姿を消した。
二宮尊徳は通称二宮金次郎としてその名も有名で、歴史を語れば、家が濁流で流され借金を抱え貧乏になる。その後、貧困ながらも両親が死去。
それから幼いながらも小田原藩内で多くの家や村の貧しい人々達の救済や再興を行い努力して功績を挙げた。
その勤勉者をモデルとして「金次郎のように時間を惜しまず勉強し出世するように・・・」と全国の小学校に「二宮金次郎像」が寄贈されたというわけです。
二宮金次郎は薪を背負いながら本を読んでいたわけではない
しかし「二宮金次郎像」の姿を消した背景には
- 実際に「薪を背負いながら本を読んでいた」という事実が確認できない
- 子供たちが「歩き像の真似をして本を読みながら歩くと交通事故にあってキケン」
という大きな理由があったからだ。
じつはこれ、
「二宮金次郎が働きながら勉強をしていた」という姿を伝えるために、子供向けにわかりやすく一枚の押し絵を書いていたもの。
しかし実際には、二宮金次郎が「薪を背負って歩きながら本を読んでいた」という事実確認ができないというのです。
「原典といわれる『報徳記』を見ると、像の姿で知られるあの場面には『誦(そらんじる)』という表現が使われています。ですので、正しい解釈は『薪を背負って歩きながら、勉強した内容を暗唱していた』となります」
しかし近年では「歩きスマホ」に問題があると、小学校の保護者から批判が多く問題視されてきた。
その理由が「子供が〝二宮金次郎像”を真似したら危険だから撤去すべき・・・」だという。
撤去された「二宮金次郎像」はその後、神社に奉納されていたり、居酒屋に寄贈されたりしている。
二宮金次郎は、昔はなかったスマホの「ながら行動」?
そこで今度は、時代の流れに合わせ
「歩きながらの二宮金次郎像」から「座って本を読む二宮金次郎像」に姿を変えてきた。
これって、おかしくない?
「歩きスマホの危険性などが問題視される中、学校でも生徒に『ながら行動』をしないように指導していると聞きます。こうした時流を考え、本を読みながら歩く金次郎の像よりも、座像の方が適切だと考えました」
とか
「たとえ座っていたとしても、金次郎の勤労・勤勉の精神は生徒に伝わると思います」
また、
二宮金次郎像の主題は「寸暇を惜しんで勉学に励む」なんだから、別に座っていても主題が台無しになることはないだろう。
と、スマホがもたらすこの時代と共に、本来の進むべき道が脱線してしまっているのではないだろうか?
二宮金次郎像は
薪を背負い3キロの石がゴロゴロしている荒い山道でも、歩いてまで勉強をしていたという勤労・勤勉の象徴。
たとえ
- 「ながらスマホ」が悪い評価を受けていても
- 実際に「薪を背負いながら本を読んでいた」という証拠が無くても
本は落ち着ける場所で読んだ方がいい・・・など、現代は少しの時間をどう有効活用するか必死になっているも
- 「勤勉の精神が時代に合っていない」
- 「“ながら歩き”は危険だ」
と、撤去したり座像に変えるのは、金次郎の功績を分かりやすく伝えようとした先人の配慮を無駄にしてしまっているように思えます。
「二宮金次郎像」は長嶋一茂の実家にもあった!?
元プロ野球界の長嶋一茂氏が1966年に住んでいた世田谷の自宅にも、この二宮金次郎の立像が建っており、それを幼少のころから見て育ってきている。
庭の全てを、セントバーナード、シェパードを放し飼いにしていて、長嶋家が引っ越した後は、あの有名な中曽根元首相が入居したことで有名だ。
ここでも、長嶋一茂氏は二宮金次郎像が「座って本を読む二宮金次郎像」に変わっておかしいと指摘している。
私はこの「座って本を読む二宮金次郎像」を見てから、
「寸暇を惜しんで勉学に励む」
とは思えないのです。
むしろ
- 「疲れたら休んでいいんだ~」
- 「本は座って読むべき・・・」
- 「サボっているだけだろう~」
としか見えず、
大きな誤解を招く要因となり、皮肉な結末のようでもあります。
皆さんはこれをどう解釈しますか・・・