日本には外国と違い、畳での生活が主流になっています。
私たちは幼少期の頃から畏まった席などで座る時は正座の形を取るのが一般的なマナーです。
正座は日本では、「目上の人に敬意を表す」という意味を持ち、きちんと座ることを昔からのしきたりやマナーとして教育されてきました。
しかし「昔からのしきたり」とは言え、実際に時代劇などでは家来は殿様の前でもあぐらで座っている姿をよく見かけます。
現代では目上の人と会う時など、正座が正式なマナーとされているが、昔はあぐらがマナーだったのでしょうか。
そこで今回は、目上の人の前で「あぐらで座るマナー」と「正座で座るマナー」の違いを紹介したいと思います。
「あぐら」が「正座マナー」になった理由
戦国時代に人々が目上の人の前であぐらをかいて座っていられたのかというと、昔は正座の習慣が無くあぐらで座るのが一般的なマナーだったと言われています。
これが目上の人の前でのマナーとして、あぐらではなく「正座をするように!」と決めた最初の人物は、なんと江戸時代第三代将軍「徳川家光」なのです。
「正座の方があぐらよりも背筋が伸びて美しく見える姿勢である・・・」
という理由から、正座を正しい座り方のマナーとして決定しました。
しかしこの正座マナーは表向きの理由であり、実は「徳川家光」が正座を正しい座り方のマナーと決めたのにはもう一つ意外な理由がありました。
正座を正しい座り方マナーと決定した発端
江戸時代初期(1635年頃)徳川家光は全国の諸大名を原則1年ごとに江戸に通わせる「参勤交代」や、諸大名に江戸城の増築を行わせる「天下普請」を行い、諸大名に財力を蓄えさせない政策を行っていました。
またその性格も諸大名が不満が有ったねせよ、徳川幕府を守るため徳川家光は非常に厳しい人物と思われていた。
だが実際には、家臣など身近な人間に襲われるかもしれない・・・何か対策はないものかと常に謀反を恐れている小心者だったのです。
そこで思いついたのが、現代における正座マナーと同じ様に「今後徳川家光の前に座る時にはあぐらではなく「罪人がする危座(きざ)」をするようにと制定しました。
時代劇などでもよく見かけるこの危座とは、長時間座らせられその苦痛から罪を白状させるための座り方なのです。
なぜ徳川家光は危座をさせたのか?
徳川家光の幼少時代は、あぐらをかき遊んでばかりで専属の教育係でもある春日局に怒られていました。時に「将来将軍になる者が勉強をしないのは罪だ」と、罪人と同じ危座をさせられました。[諸説もあります]
その後、立ち上がろうとした際に足がしびれ上手く立てなかった事をヒントにし、これを利用すれば家臣が家光を襲おうとしても直ぐには立てない!襲われる心配もないという事で、この危座を正しい座り方にしたのです。[諸説もあります]
すると、徳川家光の前ではこの「危座」が当たり前のマナーとなり、次第に武士たちは目上の人の前でも自然に危座をするようになっていきました。
正座と呼ばれる正しいマナーはいつから?
「危座」という名前はとても印象が悪いという事から、正しい座り方と書いて⇒「正座」と呼ばれるようになったのは明治時代になってから。
その後、正座のマナーは学校教育でも取り入れられ、徐々に畏まった行事や目上の人の前では「正座」をすることが一般的になったと伝えられています。
正座のマナーはしびれが発生し、好んでは正座をしたがりません。
学生の部活、特に武道三道では初めと終わりにこの正座を行っています。
もし徳川家光が居なかったら、我々は正座とういうマナーを知らないで生きてきたかもしれません。もしかすると今よりも足が伸びて、日本人の体型も変わっていたかも・・・
しかし「あぐら」から正式な座り方である「正座」は外国人には無い日本人のマナーや文化として大切にして行きたいと思います。